日野自動車 ときいて、乗用車、それも一世を風靡したクルマのメーカーだと知っている人は50歳代以上の世代でしょう。それもそのはず、今回テーマにあげるコンテッサ・シリーズの登場は’61年。1300クーペにいたっては’65年だから、ほとんどビートルズの活動時期といっしょ。若い世代は知るよしもない。
日野自動車は、いすゞ自動車と同じようにヨーロッパ企業と契約してノックダウン生産を行っていた。いすゞはヒルマン(イギリス・ルーツグループ)のノックダウン、日野は写真のルノー(フランスではルノー4CV)のノックダウンだ。
この契約の締結は’52年で、国産化は’59年。製造打ち切りは’63年だから、わずか4年しか売られていないことになる。それでもかなり世間で目立っていたのは、ユニークなスタイルもさることながら(タクシー仕様もあった。初乗り60円だ!:’57、’58年頃)、街の景色の中で乗用車自体がめずらしい時代だったからだ。
コンテッサは、ルノーのノックダウン生産で培ったノウハウを基に完全自社開発したクルマだ。だから、ルノー同様リアエンジン・リアドライブのレイアウトは拝借。サスペンションを大幅改良し、日本の劣悪な道路(当時の道は悪かった。今は良すぎるけど)に対応した。
なんと言っても注目したいのは、そのスタイル。’60年代のクルマのわりにはかなりアカ抜けていませんか? それもそのはず、意匠デザインは著名なイタリアのカロッツェリア「ミケロッティ」だからに他ならない。
その先進性は’62年トリノショー、’63年東京モーターショーで出展された参考出品車「コンテッサ900スプリント」を原型としている。カッコ悪いわけがないのだ。
気分はスポーティさを味わえる
‘60年代の私は学生だったから、ニューカーとしてのコンテッサには触れる機会はなかった。
しかし、これほどのクルマだ、根強いファンがいないわけがない。
確か’70年代後半だったと思うが、ある企業がミケロッティ・ブランドを扱う事業を立ち上げ、その一環としてコンテッサクーペのファン走行会を富士五湖で行ったのだ。20〜30台くらいのコンテッサクーペが一堂に会したシーンは、まさに圧巻。
主催者がどこから仕入れてきたのかは覚えていないが、程度のよいコンテッサクーペを1台取材用に貸与してくれた。そのクルマで1日、この名車に触れながら、ミケロッティの神髄を感じてほしいという寸法だ。
では、箇条書きでコンテッサ1300クーペの印象を。
乗り心地=
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普通。スポーティな味付けではなかった。エンジンがリアだからなのかどうか分からないが、全体的に静かだったように思う。 |
エンジン=
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非力ではないが、爆発的なインパクトはない。ごく標準的な当時の1300ccエンジン。音は小気味よく、低音でスポーティな印象。 |
ハンドリング=
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まさにRR車。露骨なくらい後方に重さを感じる。オーバーステアではないが、コーナリングでは常に前部より後部のロールが顕著。まさに独特な味で、若干の慣れが必要とみた。 |
シフト感覚=
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RRのためシフトリンケージが長い。そのためだけではないだろうが、いわゆるダイレクト感に乏しい。逆に正確なシフト操作を要求されるから、運転がうまくなれる素地をクルマ自体が持ち合わせていることになる。 |
満足感=
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高い。クルマにデザイン性を求めた草分け的存在。オーナーに、持つ喜びを与えた功績は大きい。 |
2009.05.08記
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一度見たら忘れられないデザインがフランス車のエスプリ。このルノー4CV、どことなくVWビートルに似たフォルムだが、リアエンジンなのにグリル(顔)があるのがユニーク。ドアヒンジはセンターにあるから、フロントドアは前開きということになる。このクルマでの経験がコンテッサに生かされている。 |
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1300セダンは’64年9月、このクーペは’65年4月の発売だから、事実上同時進行だったはず。当時はセダン(4ドア)があれば、必ずクーペ(2ドア)があった。家族持ちはセダン、独身者はクーペ、という分かりやすい構図の時代背景だった。メッキ部分をはずして面一化すれば、今でも十分通用するデザインではないかと思う。 |
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今も昔もデザインはイタリア! ’62年に参考出品されたコンテッサ900スプリント。ちょっとマニアックな話しだが、このフォルム、どことなくBMWに吸収されたドイツのグラース1300GTに似ている。グラースのデザインはフルアなのだが、このピエトロ・フルアとジョバンニ・ミケロテッティは、ピニンファリナ社員時代の師弟関係にして生涯の友人関係ある。どうやら、互いに影響しあったという証ではないだろうか。 |
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No.009 自動車メーカー、エスプリの時代Act1 ホンダ1300クーペ9
自動車メーカーと自動車は、往時はどんな輝き方をしていたのだろうか、という視点で私がとことん若かった’70年代、つまり私自身もバカなりに夢と希望に燃えていた時代を中心に、メーカーが良い意味で遊び心満載であった頃のクルマを回想します。
「売れなければ、いい商品ではない」という現在の価値観を根底から覆す、意欲とエスプリとアイデアに溢れていた時代を、単なる懐かしさだけで回想するのではなく、冒険や挑戦を恐れない当時の経営者や商品企画者、エンジニアたちの熱い思いが、今でも通用する何かを感じ取っていただければうれしく思います。
紹介するクルマは、私が実際に触って、乗ったクルマです。挿入のイラストは友人の古岡修一画伯のご厚意で、快くご提供していただきました。
ホンダ1300は、’69年にセダン、’70年にクーペが発表されている(メーカーの系図参照)。
1キャブレター仕様と4キャブレター仕様があり、前者の呼称はセダンが「77」、クーペが「7」、後者は「99」と「9」と呼ばれていた。
1300のスペックを超えた、ホンダの意地
意欲的なボディシルエットは、イラストや写真を見ていただくとして、まず、当時のニュースリリースを覗いてみよう。
No.020 自動車メーカー、エスプリの時代Act4 スバルff-1 1300G
スポーティかつ先進的であることが「売れる条件」だった時代が、’60年代末期から’70年代初頭だったのではないだろうか。
それを象徴するのが「スバルff-1 1300G」だ。トヨタのカローラ、日産のサニーといった強力な大衆車の巨人の中にあって、何か違う付加価値を見出さないと埋もれてしまう時代だ。このクルマの他との最大の違いは「FF方式」だったことだ。えっ!? と思われるかもしれないが、当時唯一無比のFF機構を採用したのは、スバルだったのだ。
てんとう虫の愛称で一世を風靡したスバル360の「RR」に対し、’66年にデビューしたスバル1000(バルセンの愛称を持っていた)はFFだった。それだけではない。独特のスバルサウンドを奏でる水平対向エンジン、フロントのダブルウイッシュボーン・サスペンションも高価な機構だが、ブレーキ本体をドライブシャフトのタイヤ側ではなく、付け根側に設置した「インボードタイプ・ブレーキ」も画期的だった。これはバネ下重量の軽減に貢献している。実にマニアックな設定だったことで、そこら辺の大衆車とはちょっと違いまっせ〜、とアピールしたのだ。*メンテナンスは大変だった。
周りのクルマがどんどん排気量を上げていく傾向だったため、スバル1000も例にもれず、’69年に1100cc(ff-1となる)、’70年には1300ccにスケールアップしていき、いわゆるパワーアップ合戦の真っ只中を歩んでいくことになる。
1300になって、1000や1100ファンの意見は二分した。肯定派はトルクが増して運転がやさしく(楽に)なったことが挙げられている。一方否定派は、エンジンを高回転に保たないと(ピーキーという表現だった)活発に走れない特性が、逆にやさしくなって「走りがつまらなくなった」という意見だ。
昔からスポーツカー(ファンはスバルをそう思っていた)は、エンジンはピーキーで当たり前。誰にでもやさしいクルマでは面白くない、という思想がまことしやかに語られていたのだった。
そんなスポーツカーにスバルが思われていたことは確かなことで、メーカーのエンジニアにとっては名誉なことであったに違いない。
しかし、’71年にシリーズは1400へのスケールアップと同時に、名称は「レオーネ」に変わり、先進メカの塊から、わりと普通のクルマへと変遷を余儀なくされていく。
‘70年7月10日に発売となった1300Gがラインオフするメーカー写真。1000や1100との大きな違いは専用のラジエターグリル。ボディの基本シルエットは共通だ
‘61年の東京モーターショーに出展された「スバル・スポーツ」。スバル450をベースにしたオープン2シーターで、限られた資源の中でスポーツ、走りを目指す当時の富士重工の姿勢やスピリッツが垣間見られる。
スバルff-1の歴史はラリーの歴史
No.011 自動車メーカー、エスプリの時代Act2 ベレットGTR
いすゞベレットは、’64年のデビューから’73年まで、国産スポーティモデルの代表として君臨していた。スカイラインGTが「スカG」と愛称(略称)で呼ばれたように、ベレットGTは俗称「ベレG」と呼ばれるほどのアイドルぶり、老若を問わずクルマ好きの憧れのクルマであったことは間違いない。「ジーティー」という響きにも人はときめいた時代だ。
ベレットGTRはベレット・シリーズのフラッグシップモデル(当時は、そういう表現はなかったが)で、’69年にデビュー。当時イタリア・ギア社に在籍していた巨匠ジウジアーロがデザインした同社の117クーペに搭載されていたDOHCエンジンを拝借し、他のベレットGTとの差別化を図るため、フォグランプ付きの精悍なマスクだけでなく、専用に強化された足回りを持つ、文字通り超スパルタンなスポーツカーであった。
時系列から鑑みるに、’69年に私はこの業界におらず、どうやら試乗したのはマイナーチェンジを施した’71年であったようだ。当然ながら私の運転技術が未熟な時に、こんな凄いクルマに試乗出来てしまうのだから、この業界(自動車雑誌業界)はこわい。
今も昔もいすゞ自動車本社は大森にある。普通、試乗に供されるクルマ(広報車両と呼ばれる)は、この本社から借り受けるのだが、この時はなぜか目黒にある広報車両のメンテナンスをするディーラーに借りにいった。私一人ではなく編集長(以下:編)といっしょだったことを克明に覚えている。
そちらに伺うと、白衣をまとった初老の紳士が対応してくれた。お名前までは記憶していないが胸の名札には「カードクター」とある。そこで白衣をまとっていることに合点がいった。「この方、クルマのお医者さんなんだ」と。
さらに、「クルマもこのくらいになると、普通のメカニックではなく、えらい人しか触れないのかな」などと、なんの根拠もないバカな想像までしている自分が滑稽だった。
昔、スポーツカーはスパルタンが普通だった
免許歴としては「編」の方が長かったこともあり、最初の運転は「編」に委ねる。そこから目黒通り、環8、東名高速道路(開通してわずか2〜3年)で箱根方面へ。当然助手席に座っていたわけだが、その時の記憶はまったくない。もしかしたら隣でグースカ寝てしまっていたのかもしれない。「編」はやさしい人だから、別に咎めもしなかったのだろう。
そこからの記憶は断片的で恐縮だが、箱根ターンパイクと、当時はまだダートだった長尾峠しか覚えていない。つまり、私がハンドルを握れたのはこの2個所だったのだろう。ともあれ、ついにその時はやってきた。
編:「Hくん、運転してみる?」
私:「は、はい。いいすか? んじゃ遠慮なく。・・・・・(しばらく時間が経過)すんません、これクラッチ壊れてません?」
編:「なんで?」
私:「踏んでも動かないっすよ」
編:「あのね! 重いだけだよ、気合い入れて踏み込まなきゃ。アクセルもブレーキも同じに重いからね」
私:「ほんとですね、凄く重い。でも慣れればなんとかなるもんですね、一時はどうなることかと思いましたけど。フ〜・・・・・」
編:「別に無理して速く走らなくていいんだからね」と、安全運転を促される。
私:「慣れてくると、ついついアクセル踏みたくなっちゃいますね。シフトも超ショートストロークでキマると断然気持ちいい。これがスポーツカーってもんなんですね、ワクワク・・・・・。編さん、ヒール&トウの練習してもいいすか?」
編:「どうぞご勝手に・・・・・、でも無理しなさんなよ」
私:「それじゃあ、お言葉に甘えまして。・・・・・カチ〜ン、いてててててッ!」
編:「どした?」
私:「あの、み、みみみ右足がつっちまいました」
編:「きみ、若いわりには運動不足なんだね。ほんと手間のかかるやっちゃ」
私:「くやしいですっ!(サブングル風)」