No.013 自動車メーカー、エスプリの時代Act3 日野コンテッサ1300クーペ

日野自動車 ときいて、乗用車、それも一世を風靡したクルマのメーカーだと知っている人は50歳代以上の世代でしょう。それもそのはず、今回テーマにあげるコンテッサ・シリーズの登場は’61年。1300クーペにいたっては’65年だから、ほとんどビートルズの活動時期といっしょ。若い世代は知るよしもない。

日野自動車は、いすゞ自動車と同じようにヨーロッパ企業と契約してノックダウン生産を行っていた。いすゞはヒルマン(イギリス・ルーツグループ)のノックダウン、日野は写真のルノー(フランスではルノー4CV)のノックダウンだ。
この契約の締結は’52年で、国産化は’59年。製造打ち切りは’63年だから、わずか4年しか売られていないことになる。それでもかなり世間で目立っていたのは、ユニークなスタイルもさることながら(タクシー仕様もあった。初乗り60円だ!:’57、’58年頃)、街の景色の中で乗用車自体がめずらしい時代だったからだ。

コンテッサは、ルノーのノックダウン生産で培ったノウハウを基に完全自社開発したクルマだ。だから、ルノー同様リアエンジン・リアドライブのレイアウトは拝借。サスペンションを大幅改良し、日本の劣悪な道路(当時の道は悪かった。今は良すぎるけど)に対応した。
なんと言っても注目したいのは、そのスタイル。’60年代のクルマのわりにはかなりアカ抜けていませんか? それもそのはず、意匠デザインは著名なイタリアのカロッツェリア「ミケロッティ」だからに他ならない。
その先進性は’62年トリノショー、’63年東京モーターショーで出展された参考出品車「コンテッサ900スプリント」を原型としている。カッコ悪いわけがないのだ。

気分はスポーティさを味わえる

‘60年代の私は学生だったから、ニューカーとしてのコンテッサには触れる機会はなかった。
しかし、これほどのクルマだ、根強いファンがいないわけがない。
確か’70年代後半だったと思うが、ある企業がミケロッティ・ブランドを扱う事業を立ち上げ、その一環としてコンテッサクーペのファン走行会を富士五湖で行ったのだ。20〜30台くらいのコンテッサクーペが一堂に会したシーンは、まさに圧巻。

主催者がどこから仕入れてきたのかは覚えていないが、程度のよいコンテッサクーペを1台取材用に貸与してくれた。そのクルマで1日、この名車に触れながら、ミケロッティの神髄を感じてほしいという寸法だ。

では、箇条書きでコンテッサ1300クーペの印象を。

乗り心地=
普通。スポーティな味付けではなかった。エンジンがリアだからなのかどうか分からないが、全体的に静かだったように思う。
エンジン=
非力ではないが、爆発的なインパクトはない。ごく標準的な当時の1300ccエンジン。音は小気味よく、低音でスポーティな印象。
ハンドリング=
まさにRR車。露骨なくらい後方に重さを感じる。オーバーステアではないが、コーナリングでは常に前部より後部のロールが顕著。まさに独特な味で、若干の慣れが必要とみた。
シフト感覚=
RRのためシフトリンケージが長い。そのためだけではないだろうが、いわゆるダイレクト感に乏しい。逆に正確なシフト操作を要求されるから、運転がうまくなれる素地をクルマ自体が持ち合わせていることになる。
満足感=
高い。クルマにデザイン性を求めた草分け的存在。オーナーに、持つ喜びを与えた功績は大きい。

2009.05.08記

  一度見たら忘れられないデザインがフランス車のエスプリ。このルノー4CV、どことなくVWビートルに似たフォルムだが、リアエンジンなのにグリル(顔)があるのがユニーク。ドアヒンジはセンターにあるから、フロントドアは前開きということになる。このクルマでの経験がコンテッサに生かされている。
     
  1300セダンは’64年9月、このクーペは’65年4月の発売だから、事実上同時進行だったはず。当時はセダン(4ドア)があれば、必ずクーペ(2ドア)があった。家族持ちはセダン、独身者はクーペ、という分かりやすい構図の時代背景だった。メッキ部分をはずして面一化すれば、今でも十分通用するデザインではないかと思う。
     
  今も昔もデザインはイタリア! ’62年に参考出品されたコンテッサ900スプリント。ちょっとマニアックな話しだが、このフォルム、どことなくBMWに吸収されたドイツのグラース1300GTに似ている。グラースのデザインはフルアなのだが、このピエトロ・フルアとジョバンニ・ミケロテッティは、ピニンファリナ社員時代の師弟関係にして生涯の友人関係ある。どうやら、互いに影響しあったという証ではないだろうか。

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