No.009 自動車メーカー、エスプリの時代Act1 ホンダ1300クーペ9

自動車メーカーと自動車は、往時はどんな輝き方をしていたのだろうか、という視点で私がとことん若かった’70年代、つまり私自身もバカなりに夢と希望に燃えていた時代を中心に、メーカーが良い意味で遊び心満載であった頃のクルマを回想します。
「売れなければ、いい商品ではない」という現在の価値観を根底から覆す、意欲とエスプリとアイデアに溢れていた時代を、単なる懐かしさだけで回想するのではなく、冒険や挑戦を恐れない当時の経営者や商品企画者、エンジニアたちの熱い思いが、今でも通用する何かを感じ取っていただければうれしく思います。
紹介するクルマは、私が実際に触って、乗ったクルマです。挿入のイラストは友人の古岡修一画伯のご厚意で、快くご提供していただきました。

ホンダ1300は、’69年にセダン、’70年にクーペが発表されている(メーカーの系図参照)。
1キャブレター仕様と4キャブレター仕様があり、前者の呼称はセダンが「77」、クーペが「7」、後者は「99」と「9」と呼ばれていた。

1300のスペックを超えた、ホンダの意地

意欲的なボディシルエットは、イラストや写真を見ていただくとして、まず、当時のニュースリリースを覗いてみよう。

1970年2月9日
HONDA 1300クーペのご案内

当社ではこのたび
  HONDA 1300 coupe 7
  HONDA 1300 coupe 9
の2車種、7機種を同時に発売することになりました。
HONDA 1300 クーペは高度の機能・性能と洗練された美しさを、極めて高いレベルで 融合・結晶させた「絢爛たるナイセストカー」です。主な特長点は次の通りです。

(1)
流麗なボディスタイリング
?空気力学から生れた優美な曲面で構成されたボディは、超大型プレス鋼板のモノコック式で剛性が高く、FF方式と相まってすぐれた走行安定性を生み出します。美しいスタイルの中に、広い5座席のルームスペースが包まれています。
(2)
機能美と豪華さをあわせてもつ運転席
?「フライトコクピット」と名づけられている運転席は、大型メーター、スイッチ類がドライバー に向って配置してあるため、見やすく、しかも豪華さの極致です。メーターは特殊曲面の防眩レンズを採用、反射がなく目が疲れません。夜間は計器文字がくっきりと浮き上るグリーンの透視光式です。
(3)
ベースはスーパーセダンHONDA 1300が誇る高級な動力機構。
?〈DDACエンジン〉〈FF方式〉〈独自の4輪独立懸架〉を受けついだ高性能です。 coupe 9 4キャブレター 110馬力coupe 7 1キャブレター 95馬力
(4)
すべての機構・レイアウト・デザインがホンダの提唱する「積極安全思想」で貫かれています。
?(例)ボディのスタイルは、デザインの為のデザインではなく、空気の流れが走行安定性や直 進性、ロードグリップを確保する安全な設計。
(例)カンチレバー(片持ち)ルーフは乗客をすっぽりと包み保護する剛性構造であり、同時に 美しいシルエットを形成しています。

以上、当時のニュースリリースより抜粋。

ここで気になる表現は、「絢爛たるナイセストカー」と「110馬力と95馬力」。
絢爛とは、想像するに「豪華」をうたいたかったのでしょう。高度成長期に見られる上級思考への配慮。「ナイセスト」の文言は、ちょっと凄すぎるけど。
110馬力、95馬力は、当時としては例外的な高出力。スポーツモデルの、それも1600〜2000ccクラスのパワーを、惜しげもなくこのクルマの排気量に与えているのは、まさに技術のホンダの意地と真骨頂。
ちなみに生産計画は、シリーズで1万台となっていた。心血を注いで開発したエンジンなんだから、そのくらいは売れて当たり前と思っていたことだけは確か。そこに、当時のエンジニアの自信とホンダの性能第一主義がうかがえる。

FFは今ではめずらしくないが、当時は「高性能」、「安全」へ結びつける強引さが目を引く。ホンダとしては、スーパーロングヒットの「シビック」デビューの2年半前で、そういう意味では多分にマーケット・テスト的な意味合いもあったのでしょう。セダンを出して、直後にクーペを追加するあたりに、それが垣間見えるわけだ。

価格は、一番安価なクーペ7スタンダードが52万8000円、一番高いクーペ9カスタムでも75万円とある。

え〜安い!と思われるかもしれないが、記憶では学生アルバイトの身分だった私のギャラは月3万円程度だった。確か編集長でも6〜7万円くらいだったのではないか。ここはあくまで想像だけど

4輪車草創期のホンダ

今でもそうだが、ホンダはどちらが上ということはなく、2輪と4輪は常に同格に位置付けている。レースで言えばF1は撤退したけど、国内レースや米インディ・シリーズはやっているし、2輪のモトGPだとカワサキは撤退したけどホンダはやめない。意識やアイデンティティのバロメーターとしては分かりやすい会社だ。

さて、クーペ9に話しを戻そう。季節までは記憶にないが、まだ寒い時期にプレス向けの試乗会が行われた。場所はなんと晴海埠頭だった。
通常、箱根あたりのホテルを基点に1時間くらいの時間を与えられ、各媒体は自由に撮影したり、ワインディングを攻めたりするのが普通だったが、ホンダは違った。
予算が少なかったのか、当時の東京本社が東京駅八重洲口にあったから、近くを選んだのかはさだかでないが、とにかく晴海埠頭だった。
今思うに、ホンダの信念として他社とは違うこと(プレス試乗会でさえも)をしたかったのではないだろうか。そうだ、そうに違いない!

広大な広場(駐車場)にパイロンが置いてある。「ここはジムカーナ場か!」みたいなシチュエーションだと思っていただければ当たっている。
隣に関係者(エンジニア)が座る。これも他社では公式にはあまりない。
開発エンジニア:「どうぞ」
私:「では、行かせていただきます」。
次の瞬間アクセル吹かし気味でクラッチをつなぐ。その直後、とんでもないスキッド音はするが、一向にクルマは前に進まない。

 
「絢爛たるナイセストカー」がうたい文句。フロントグリルの意匠はセダンと共通しているが、クーペはセンターを突出させ、シャープな感じに仕上げることに留意したように想像できる。角のセダンに流麗なクーペ、と言ったところだろうか。

簡単に言えば、タイヤ(前輪)のカラ回り、もっと簡単に言えば下手くそ、クルマにかたを持つならパワーあり過ぎ。これ、わずか1300ccでの話しだ。
こんな経験したことない。ちょっと前なら、走り屋系・タイヤスモーク大好き派の御用達になること疑いなし!
で、FFなのにフロントが厚く、スポーツカー的なポジションと視界。到底ジムカーナには向きそうもない、のに何度も何度もコーナリングを強いられる。タイヤがクロスプライのせいなのか、スパッとしたコーナリング・フォームは望むべくもない。というよりその都度適正なアクセルワークができていない。もっと言えば、元スバルの高岡さんあたりからなら鉄拳が飛んできそうなくらいFF自体のころがし方を理解していない。
それでもタイヤのスキッド音とスモークは豪快で、速く走れているような錯覚を覚えたことだけは確かだ。絶対に実際のタイムは激遅だったに違いないけど。もし計測していたら、いいところブービーだったでしょうね。

若気の至りとは、まさにこのことで、クルマの試乗(ドライブ)というより、不当なアクセルワークの連発。当時のホンダ関係者さんから見たら「クルマ雑誌屋って、アクセルの踏み方も知らねえのかよ!」って思ったでしょうね。本当にすみませんでした。40年近くも前で、時効とはいえ謝ります。

そんなわけで、私のホンダ1300クーペ9の印象は、「絢爛ボディをまとった、とんでもパワー野郎」だったのであります。
2009.04.28記


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いすゞベレットは、’64年のデビューから’73年まで、国産スポーティモデルの代表として君臨していた。スカイラインGTが「スカG」と愛称(略称)で呼ばれたように、ベレットGTは俗称「ベレG」と呼ばれるほどのアイドルぶり、老若を問わずクルマ好きの憧れのクルマであったことは間違いない。「ジーティー」という響きにも人はときめいた時代だ。 ベレットGTRはベレット・シリーズのフラッグシップモデル(当時は、そういう表現はなかったが)で、’69年にデビュー。当時イタリア・ギア社に在籍していた巨匠ジウジアーロがデザインした同社の117クーペに搭載されていたDOHCエンジンを拝借し、他のベレットGTとの差別化を図るため、フォグランプ付きの精悍なマスクだけでなく、専用に強化された足回りを持つ、文字通り超スパルタンなスポーツカーであった。 時系列から鑑みるに、’69年に私はこの業界におらず、どうやら試乗したのはマイナーチェンジを施した’71年であったようだ。当然ながら私の運転技術が未熟な時に、こんな凄いクルマに試乗出来てしまうのだから、この業界(自動車雑誌業界)はこわい。 今も昔もいすゞ自動車本社は大森にある。普通、試乗に供されるクルマ(広報車両と呼ばれる)は、この本社から借り受けるのだが、この時はなぜか目黒にある広報車両のメンテナンスをするディーラーに借りにいった。私一人ではなく編集長(以下:編)といっしょだったことを克明に覚えている。 そちらに伺うと、白衣をまとった初老の紳士が対応してくれた。お名前までは記憶していないが胸の名札には「カードクター」とある。そこで白衣をまとっていることに合点がいった。「この方、クルマのお医者さんなんだ」と。 さらに、「クルマもこのくらいになると、普通のメカニックではなく、えらい人しか触れないのかな」などと、なんの根拠もないバカな想像までしている自分が滑稽だった。 昔、スポーツカーはスパルタンが普通だった 免許歴としては「編」の方が長かったこともあり、最初の運転は「編」に委ねる。そこから目黒通り、環8、東名高速道路(開通してわずか2〜3年)で箱根方面へ。当然助手席に座っていたわけだが、その時の記憶はまったくない。もしかしたら隣でグースカ寝てしまっていたのかもしれない。「編」はやさしい人だから、別に咎めもしなかったのだろう。 そこからの記憶は断片的で恐縮だが、箱根ターンパイクと、当時はまだダートだった長尾峠しか覚えていない。つまり、私がハンドルを握れたのはこの2個所だったのだろう。ともあれ、ついにその時はやってきた。 編:「Hくん、運転してみる?」 私:「は、はい。いいすか? んじゃ遠慮なく。・・・・・(しばらく時間が経過)すんません、これクラッチ壊れてません?」 編:「なんで?」 私:「踏んでも動かないっすよ」 編:「あのね! 重いだけだよ、気合い入れて踏み込まなきゃ。アクセルもブレーキも同じに重いからね」 私:「ほんとですね、凄く重い。でも慣れればなんとかなるもんですね、一時はどうなることかと思いましたけど。フ〜・・・・・」 編:「別に無理して速く走らなくていいんだからね」と、安全運転を促される。 私:「慣れてくると、ついついアクセル踏みたくなっちゃいますね。シフトも超ショートストロークでキマると断然気持ちいい。これがスポーツカーってもんなんですね、ワクワク・・・・・。編さん、ヒール&トウの練習してもいいすか?」 編:「どうぞご勝手に・・・・・、でも無理しなさんなよ」 私:「それじゃあ、お言葉に甘えまして。・・・・・カチ〜ン、いてててててッ!」 編:「どした?」 私:「あの、み、みみみ右足がつっちまいました」 編:「きみ、若いわりには運動不足なんだね。ほんと手間のかかるやっちゃ」 私:「くやしいですっ!(サブングル風)」