7月5日からTBS系で始まったドラマ「官僚たちの夏」を観て、いろいろと考えさせられた。原作は社会派の巨匠、故・城山三郎氏によって’75年に単行本化された話題作。もちろんドラマはフィクションということになっているが、様々な設定はほぼ事実に基づいている。
主役の通産官僚エースに佐藤浩市、与党の大物政治家に北大路欣也、ほか堺 雅人、高橋克実、船越英一郎らが脇をかためる豪華キャストだ。
時代背景が昭和30年代ということで、セットも凝っている。まさに映画・三丁目の夕日を彷彿とさせる。主役の自宅界隈という設定ロケも栃木県の足尾で探した当時に近い町並みを使うという徹底ぶりは大いにこだわりを感じさせるものがあった。
このドラマで(まだ1回目だけど)考えさせられたのは2つだ。
一つは終戦10年後当時の官僚たちには、官僚本来が持つべき大志とスピリッツに溢れていたこと。大卒の初任給が約1万3000円の時代に公務員の初任給は8700円だったそうだから、まさに大志がなければとても務まるものではない。
もう一つは草創期の日本の自動車業界が、夢と技術革新に溢れていたことだ。ただひたすら欧米(特にアメリカ)に追いつき・追い越せという途方もない野望に満ちていた。
一つ目の方は言わずもがな。ドラマ側の言い分は、おそらく今の官僚たちに、
「先人たち(ここでは通産省=現経産省官僚)の未来目線の視野を見よ! 国内産業(ここでは自動車)の育成と生産拡大によって、強い日本にすることが国家・国民のための最善策。その道筋を作ることこそが官僚に与えられた使命だ。大蔵省(現財務省)とケンカするのは、そのような大きな目標があったからこそ。間違っても姑息な省利省益なんぞであってはならない! 今でも意地があるなら、特定政党、一部の首長、経済団体などから指摘される前に自分たちの手で地方分権を進めてみよ。時代を読めない者は官僚に非ず!」
と、まるで説いているかのように思える。
7月5日現在の静岡県知事選終了で与党候補の連敗理由は、もちろん内閣支持率低迷が最大の要因ではあるけれど、その低迷のポイントが現状の「官僚をコントロールできない体質」から抜け出せない(抜け出したくない)の体質にあることを、どうやらこの政権党も官僚も気付いていない。
一にも二にも、政治の役目は、官僚の能力を使いこなすことなのだ。そこには「官僚たちの夏」から脈々と流れている彼らのプライドに気遣うのではなく、未来を見据えてガチンコで闘うことをも意味する。馴れ合ってしまうから、いい結果どころか疲弊、嫌悪感しか生まれない。今一度、彼らの大志とは何か、政と官は互いに向き合うしかない。
自動車会社が輝いていた時代
さて、ドラマに出てくる「アケボノ自動車」は、まるで町の鉄工所のような設定になっているが、’55年当時の国民車構想を具現化したクルマはトヨタ・パブリカのはずで、となるとモデルはトヨタ自動車。むろん今と比べれば規模は小さいが、すでにクラウンを登場させており、着々と基幹産業としての基盤を整えつつあった。つまり、すでに大きな企業だったのだ。かいつまんでトヨタの当時を振り返ってみると、
‘37年(昭和12年) トヨタ自動車工業(株)設立。
‘41年(昭和16年) AE型乗用車生産開始。
‘47年(昭和22年) SA型小型乗用車、SB型小型トラック生産開始。国内生産累計10万台達成。
‘50 年 ( 昭和 25 年 ) トヨタ自動車販売(株)設立。
‘54 年 ( 昭和 29 年 ) 技術本部(テクニカルセンター)完成。
‘55 年 ( 昭和 30 年 ) トヨペット・クラウン、マスター発表。
‘56 年 ( 昭和 31 年 ) 本社テストコース完成。
‘57 年 ( 昭和 32 年 ) 米国トヨタ自動車販売設立、対米輸出クラウン1号車。
‘61 年 ( 昭和 36 年 ) パブリカ発表。
‘62 年 ( 昭和 37 年 ) 国内生産累計100万台達成。
‘66 年 ( 昭和 41 年 ) カローラ発表、東富士自動車性能試験場完成。
‘61年に登場したパブリカは、当時の通産省の希望に満額回答とはいかないまでも、車両重量580kg、乗車定員4名、700cc・28馬力ながら110km/hの最高速と平坦舗装路燃費(そういう表示だった)は24km/リットルと立派なものだった。後にエンジンは800ccへとスケールアップされ、名車トヨタスポーツ800を生む。 |
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事実上の国民車、というより日本車のスタンダードを確立したのはカローラだ。初期モデルは1100ccで、後に1200ccへとスケールアップ。現在では初期のコンセプトは垣間見られない作りとなっているが、価格分の信頼性という信念はいささかも崩れていない。 |
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初代カローラと同年にデビューした日産(表記はダットサン)サニー1000。’70年に2代目となって1200へとスケールアップ。その際の「となりのクルマが小さく見えます」というカローラへの攻撃的な広告コピーはあまりにも有名だ。 |
つまり、実際にはドラマでテストしていた広場のような設定どころか、’56年には立派なテ ストコースが完成していたし、厳密で恐縮だけど設定の700cc車は事実ながら、実際は水 冷エンジンではなく、パブリカはトヨタ史上例外的な空冷エンジンだったことだ。さらに重 箱の隅を突付くようなことを言えば、国民車構想を具現化させたパブリカの功績は大きいが、 国民車としての実績を残したのは事実上「カローラ」だった。裏付けるデータとして生産累計 100万台からわずか10年後の’72年(カローラ登場から6年後)にトヨタ全体で生産累
1000万台を達成している。
つまり、ドラマの筋書きどおり通産官僚の主役たちと自動車メーカーは、わずか15年ほど で豊かな国民生活という日本の夢を実現させたことになる。このことを我々は自動車メー カー単独の努力と見ていたが、実際に官僚たちが携わっていたとしたら、官と業の関わりもまんざら悪いことではない。
どうしてもドラマの展開上トヨタのことを多く書いてしまったが、参考までに’60年代の事実上国民車構想に合致したクルマたちを紹介しよう。
‘60 年 三菱500、マツダR360クーペ。
‘61 年 トヨタ・パブリカ、スバル360。
‘62 年 三菱ミニカ、同コルト、マツダ・キャロル、スズキ・フロンテ。
‘63 年 ダイハツ・コンパーノ。
‘64 年 マツダ・ファミリア。
‘66 年 トヨタ・カローラ1100、ダットサン・サニー1000、スバル1000。
‘67 年 ホンダN360。
当時、通産省が提示した国民車構想の骨子は、
●最高時速100km以上。
●乗車定員4名、100kgの荷物が積載可能。
●60km/h定速走行燃費が30km/リットル以上。
●メンテナンスフリー10万km以上。
●価格は月産2000台で25万円以下。
などであった。
これは当時メーカーの認識では技術、コスト面からも困難とされていた。(事実、額面どおりとはいかなかった)、しかし各メーカーが刺激を受けてクルマを登場させたのは年表のとおりだ。
大別すると、いわゆる軽自動車規格(最初は360cc)と1000cc前後(現在で言うコンパクトカー)に分けられている。500cc(現在の軽自動車規格より小排気量)が存在したのは、構想予定に税制面での優遇が計画されていたからだが、実際には施行されなかった。
「官僚たちの夏」は、良い意味で自動車メーカーとのせめぎ合いがあって試行錯誤を繰り返していた。何から何までが豊かでなかったからこそ豊かさを求めていた。そのことでは官も業も一体となって夢を追いかけていたように見える。
今、あらゆるものが充実し行き渡った時代の中で、新しい官僚、そして自動車業界の夏はくるのだろうか。豊かさを謳歌し尽くした今、それは容易なことではない。
2009.07.07記